結婚したくない男

せめてプライベートはのんびり暮らしたい。

医者だって患者を選ぶ。別にブラックジャックを気取るわけじゃないけどさ。

 

今日は医者という立場から、医療人は別に善人でも神様でもなく、ということを書いていきます。

 

その前に少しだけ必要知識として「医療倫理のルーツ」を説明します。

今から2000年以上前、ギリシアにヒポクラテスという一人の医師がいました。彼は、「患者の意思を尊重せよ、差別をするな、秘密を守れ」みたいな誓いをたてて、神様に宣誓します。これが「ヒポクラテスの誓い」です。医療の分野では誰もが一度は聞いたことのある有名な宣言です。

 

この「ヒポクラテスの誓い」を根幹として「ジュネーブ宣言(1948年)」に代表される様々な宣言によって「医師のあり方」つまり「医療倫理」の考えは現代まで脈々と受け継がれてきました。

ニュルンンベルグコード(1947年)、ヘルシンキ宣言(1964年)、シドニー宣言(1968年)、アルマ・アタ宣言(1978年)、リスボン宣言(1981年)。いろいろな宣言がありますね。

医療技術の進歩とともに、これらの内容も細部に修正が加えられ続けています。医師国家試験でも絶対に間違ってはいけない禁忌問題として、毎年必ず出題されます。

 

これらはざっくり「医師の職業倫理」と「患者の権利」の2つについて宣言しています。

わかりやすく言うと「医療人たるもの患者のためにベストを尽くそうね。」、「弱い立場の患者さん、きみたちにはこんな権利があるよ。」ってことです。

 

 

さて、病院には色々な患者が来ます。

そこには好き嫌いとか合う合わないの感情が産まれることがあります。患者側からも、そして医師側からも人間である以上少なからず相性があるのは当然です。医者なんて神様じゃないですからね。

これは結局、「医者も患者を選んでいる」ということに他なりません。ただし無意識に。もちろん仕事である以上、最低限の結果だけは出します。そこにあるのはプロとしての倫理とプライドです。

どんな仕事でも、嫌なことだけどご褒美が貰うために頑張るっていう人は多いと思います。同じように医者も、嫌な患者を診るインセンティブの一つとして報酬や地位が存在します。

 

結局「医療倫理」とは、いうところのただの正論にすぎません。正論はつまり建前。賢い人ほど、こと組織の中で本音は口にしません。いや、してはいけないのです。なぜなら雇われの身分だから。報酬をもらっている以上、雇用主の不利益になることを犯すのはルール違反です。勿論その裏に自分の保身がある場合がほとんどです。建前とは組織の潤滑油なのです。

 

医者が、技術や成績によって報酬に開きが少ないのは、単にディスカウントする要素が少ないからです。(わからない人はこのエントリーを読みましょう「くず歯医者の恋愛経済入門8 あなたに値段をつける・改」)

簡単に言うと相当なことをしない限り、クビにならないってことです。例えば野球選手なんかと比べれば明らかでしょう。

 

組織から距離をおいて一人でやっていくということはカッコよくみえるるかもしれません。しかしこれは、しがらみから解放される反面、自分で自分を律することができなければただの負け犬(の遠吠え)で終わってしまうということなのです。

 

ブラックジャックのようにズケズケ言いたいことを口にして、気に入った患者だけ診察するということは、巷にあふれる医療倫理の面からも、そして技術的な信用の面からもリスクは多大なものになります。それなりの報酬がなければとてもじゃないけどやってらないよ、ということです。

だからみんな「医療倫理」に基づき、例え嫌な患者に対しても、誠実に診療するのです。